我が国のはじまりを考える

今年度、文教委員会委員を拝命しました。

文教委員会は、市民文化局、区役所、こども未来局、教育委員会を所管します。

市民文化局では地域のことを始め、人権やスポーツや芸術文化等も所管し、教育委員会は学校教育だけでなく、生涯教育や文化財研究も所管します。

我が国のはじまりを考えることは、地域のことや芸術文化、教育委員会の全般にかかわることで、淡路島にルーツのある私が改めて文教委員会に所属するにあたり、温故知新が基本になります。

先日の淡路市視察、ファビュラスレビューボーイズの公演で、我が国の成り立ちについて考えました。

古事記や日本書紀では、淡路島は、イザナギとイザナミがおのころ島でつくったはじまりの島と言われています。

何でレビューの公演を見て考えるのかというと、数年前のしんゆりレビュー公演で大化の改新の時代の歌劇を観たからです。大海人皇子が主役で神崎順さん、中大兄皇子を10caratsのリーダー浦野祥鷹さんが演じた物語で、神崎さんの格好良さはもちろんのこと、悪役になった中大兄皇子の憎たらしい限りを演じた浦野さんの好演は忘れられません。浦野さんご自身は優しくて格好いいリーダーなので、演じ切るのはすごいですね。

この神崎さんが演じた大海人皇子が後の天武天皇で、古事記の編纂を始め、元明天皇のときに太安万侶が献上しました。

古事記や日本書紀の編纂は、天皇を中心とした政治体制の確立のためと言われていますが、それにしては辻褄が合い過ぎるところがあります。

600年代末期から700年代初期にかけての我が国で編纂されたものが、日本各地にある史跡等に通じているのは、「後付け」の部分もあるかもしれませんが、後付けで言い切れないものがあります。

神様はいるのか?いないのか?というスピリチュアルな議論を避けて通れないのが我が国の歴史です。

そもそも歴史自体が人々の解釈によって生じた事件の背景に対する考え方が異なり、物語を書くといい役にも悪役にもなります。

我が国は八百万の神々という考え方があります。

どこにでも神様はいらっしゃいます。

私の考えの起源はそこにあります。

子どもの頃、道路に唾を吐くと「天に唾を吐いている」と母に注意されたことがあります。そう、道路の神様に唾を吐いたわけです。

そんな八百万の神々の考え方が、万物に感謝するという日本人の考え方の基本になっています。

八百万の神々がいて、神様もまた完璧ではなく、荒々しかったり、嫉妬深かったり、過ちをおおらかに受け入れたりと、我が国の神様は人々の信仰だけでなく、人々に愛される神々でもあると思います。

古事記と日本書紀でも内容が違うじゃないか?という意見もあるでしょう。でも、八百万の神々が自分をよく書くように、当時の執筆者を動かしていたのかもしれませんし、その神様の動かし方で、内容が少し違うのかもしれません。

大化の改新も、中大兄皇子と中臣鎌足は英雄なのか?はたまた権力争いの勝者による新しい独裁政治なのか?これも後世に描かれた物語で角度が変わります。

一つの考え方ではなく、様々な考え方があることを我が国の歴史が示しています。そして、その根底には八百万の神々の考え方があり、一人が悪いわけでなければ、一人がいいというわけでもないという社会の考え方の基本になっていると考えられます。

昨今、「多様性」と言う言葉が使われますが、我が国の神話では、神様でも失敗し、反省していますので、意見が違うこともあれば、間違いもありますので、意見の異なる人を真っ向から否定せず、受け止めることが重要で、多様性は本来の我が国の姿なのだろうと思います。